NASnosukeの雑記

雑記です。たぶん真偽が怪しい。

虚無への憧憬

 急な書き出しだが、自分は虚無というものを思慕している。主観的には、それは破滅願望や希死観念とは異なるものである。破滅も死も、すべて不純なものであり、憧憬に値しない。それらは空虚ではないからである。何故、そうであることを求めるのか。それは、(おそらく)極めて個人的な思想に由来する。

 概念とは灯である。その灯が我々の脳裏に映す影をこそ、我々は見ているのである。そして、その影はごく個人のものである。私の見ている「赤色」と、貴方の見ている「赤色」が全く同じものであるとは、この世界に生きる誰であっても示すことは能わないのである。自分の見ている「赤色」が、他の誰かの視界においては、自分にとっての「青色」である可能性は否めない…。平時は、そんなことは考えない。そんなことを知る必要は一切無いし、考えたところで何の益にもならない。しかし、それはふとしたときに脳の表層に浮かび上がり、囁きかけてくる。そんな時、自分はどうしようもない不安に襲われるのである。「この世のすべては自分の見ている夢である。」そんなことを考えることもある。しかし、そうであってくれれば自分はこれほどまでに憂いを抱くことはない。とどのつまり、決して確かめようのない他者との断絶、それが恐ろしいのである。幼く、情けないことに。故に、自分も他者も、その一切が掻き消えた、果てなき虚無を切望するのである。あらゆる概念はその観測者を喪い霧散した、安楽に満ちた世界を。

 思うに、虚無とは人間が観測し得る「絶対なる存在」の一つである。通常、概念というものは我々に観測されなければ存在し得ない。(影があって初めて、それを映す灯が現れる。非常に奇妙で、因果が逆転しているようにも思えるが、それはそういうものである。)しかしながら、真の虚無は、我々すべてが消え去った後に現出する。人間に定義されずとも、それは確かに存在する。(数学的、物理的な何某にも似た気配を感じるが、周知の通り、自分は数学には明るくないため深くは言及できない。)人の身では、その真偽を確かめることは能わないと承知している。しかし、確信めいた何か、信仰とでも言うべきその情動を、自分は抱いて止まないのである。