NASnosukeの雑記

雑記です。たぶん真偽が怪しい。

「弱者迎合」が嫌いだ

 普段の自分の妄動ぶりを見ている方は何となく分かっているだろうが、自分はポリコレやそれに類する「弱者迎合」の思想が大嫌いである。この記事は、自分がそうしたものを何故嫌うのか、思考の過程を表すものである。

 まず、この記事における「弱者」とは何を表すのかを明確にしておく。「弱者」が居ることは、「強者」もまた居ることと不可分であり、二者間の関係性において彼らはラベリングされる。そしてその関係性は、しばしば社会構造に起因するものである。代表的なのは資本家と労働者の関係性が資本主義と呼ばれる構造に起因する例であろうか。「弱者」とは、構造から発生する概念であると主張しておく。

 そして、自分はそうした構造の変革を望まない。保守的なのである。では何故保守的なのか。しばしば語られることとして、搾取する側である「強者」は甘い汁をすすり続けたいがために構造を擁護するのだ、という論があるが、自分は (少なくとも自覚的には) 自らを強者と捉えてはいない。「『弱者』もまた構造を変えずとも幸福になれると思っているし、変革に伴う痛みなどまっぴら御免で、そもそも変革の根拠となる『大義』に対して懐疑的である」というのが本音である。

 自分の幸福論についても話しておかねばなるまい。悪意ある表現をするならば、幸福は幻覚に過ぎないと思っている。幸福はどこまで行っても主観の域を出ない。分かりやすく例えれば、質素なパンで大いに満足できる貧者と、高級なパンでも満足できない富裕者があったとする。客観的な指標、富の多寡を参照し得るならば後者がより幸福なのだろうが、そうではないことは想像できるだろう。(もっとも、現実には富裕者の方が幸福であることは多いが、幸福と条件との関連については後述する。) 幸福は主観的なものだからこそ、環境的要因 (条件) は関係せず、自己暗示でしかないと主張するのである。(そして、不幸は忘却してしまえるとも主張しておく。)

 しかしながら、現実世界はそう単純ではなく、様々な条件が関数として現れる。それはヒトが有限の存在である限りどうしようもない事実であり、だからこそ、自分は「弱者迎合」を嫌悪するのである。多分な悪意を以て、フェミニズム槍玉に挙げるとしよう。フェミニズムは女性を「弱者」、男性を「強者」に位置付けた構造を想定し、その不平等を解消することを目指す思想であると自分は了解している。字面だけならば非常に良心に満ちた思想である。しかしながら、(「ツイフェミ」勢力の狼藉を無視したとしても) 自分は閉口する。何故か。健全な自己暗示を妨害するからである。

 「弱者迎合」に共通するのは、例えば「あなたが当たり前だと思っていたことは、実は不条理なのだ。」と主張する「啓蒙」を以て伝播する点である。構造への不満を喚起し、構造の中で無難な幸福を手にできたかもしれない人々を、闘争の場に引きずり出すのである。人は常に漠然とした不満を抱えるものだが、「啓蒙」された甘言はそれに根拠を与える。実際、根拠は何でもいいのだ。待機中の水蒸気が微細な粒子を核として水滴を成すように、不満は輪郭を得る。不可視で、忘却できる存在だった不満が、一転して無視し得ない存在になる。そして、幸福に至るための自己暗示を阻害する。(幸福もまた、漠然としたものであり、家族などの社会的構造は、それに輪郭を与える標、「核」のひとつである。先述した幸福/不幸の条件とは、幸福/不幸の「核」になり得る存在全般である。) これが、自分が「弱者迎合」を嫌悪する理由である。

 ここまでの主張は、客観的な根拠に基づく批判ではなく、自分の主観による。そのため、一貫して嫌悪とする表現を用いた。そもそも自分は、客観性なるものに不信を抱いていると捨て台詞も残しておく。

 しかし自省してみれば、健全な自己暗示とは程遠い人間である。自分は自分の考えに多分な自信を持っているから、それを実践すれば幸福になれると確信はしているのだが、それでもなお実践できない己の惰弱さと、それの根源、ヒトであることを無念に思うほかない。自分が人類が何だと日頃言っているのは、自分の愚かしさはヒトであることに起因しており、自分以外のヒトもまた愚か。自分はその原因に気付いているのになお愚かなのだから、他人はなおさらであると傲慢にも考えているからなのだ。どうしようもない最悪人間である。しかし、自らが最悪であることさえ人類の限界の表出と捉えてさえいるから、本当にどうしようもない。