NASnosukeの雑記

雑記です。たぶん真偽が怪しい。

精神は、モジュールの集合体である

 精神とは何か。人類の永遠の問いとも言える議題であり、その結論は一に定まることはこれまでに無かったし、これからも無いだろう。しかしながら、人工知能 (AI) 技術の発展目覚ましき今日、それに圧迫されるような形で、「殊、ヒトの精神とは何か。AIと何が異なるのか。」という問いが浮かび上がった。他に、「21世紀は自由の世紀である。」と声高に叫ばれるようにもなった。自由とはすなわち忌むべき旧習の打破であり、市民それぞれが、主体的に自己を定義することである。その最たる例がジェンダーフリー思想であろう。肉体的に性を定義される現状を変革し、精神的にヒトの性を定義せんとするものである。ここにおいて、今日の支配的思想は、「ヒトの精神は定義しづらいが確かに在り、それは尊ばれるべきものである。」といったようである。自分はそれに一言二言口を挟んでやりたいが、今はその時ではない。今主張すべきは、自分は「精神とは何か。」の問いに対して、記事の題に記したように「精神とはモジュールの集合である。」としていることである。

 まず、「精神とは、脳内で (ニューロンによって) 実行される計算の総体であり、真に議題となるのはそれらの計算の素性である。」との前提を共有したい。神経科学の知見を借用したものである。正直、この前提を提示した時点で結論を述べたようなものではあるが、一応説明してゆこう。精神の構造は視覚的に、容易に想像し得る。

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初めに、ある入力に対して必ず一定の範囲の出力を返す関数aを想定してほしい。これそのものは非常に単純なものである。それこそ、原始的な魚類でさえ計算可能であろう。次に、それらの簡単な関数が連なり、”sheet” とでも呼ぶべき関数の集合体を形成する。そして、”sheet” が重なり、”block” を成す。そしてさらに…、といった風に、より高次の関数の集合体に統合されてゆく。その最高単位が「精神」である。すなわちここにおいて主張するのは、「精神は分解して検討し得る物象である」ということである。

 もしも自分が数学に明るければ上の図により詳細かつ正確な解説を付すことができるだろうが、生憎全くそうでない。しかしながら、精神は関数の集合体であると伝えたがっていることは読み取ってもらえたと思う。そして、それらの関数、あるいはその集合体をモジュールと呼んだのには、もちろん理由がある。次に主張するのは、「それらのモジュールは交換可能性、拡張可能性を保っている」ということである。交換可能性とはすなわち、ある計算を実行する際、各次モジュール段階において、あるものはアクティブで、またあるものはインアクティブであるということである。例えば、日常を過ごしているとき、ややこしい哲学的な思考はおそらくしないだろう。そうした計算を実行するモジュールがインアクティブな状態なのである。しかしながら、然るべき場、然るべき時においては、そうしたモジュールがアクティブな状態に切り替わり、日常を穏やかに過ごすためのモジュールはインアクティブな状態になる。このように同時にアクティブになることができないモジュールは、状態を交換するしかない。これが交換可能性の意味である。では拡張可能性とは何かと言えば単純な話で、新たな関数を実装するキャパシティが存在するということである。例えば、これまでキリスト教を知らなかった者が、それを知ったとしよう。その者の「精神」には必ず何らかの変化が生じるだろう。それはすなわち、計算結果の変化であり、計算結果が変化することは関数が変化することである。「知る」という行為は、新たな関数をインストールし、モジュールとして実装することなのである。そして多くの場合、それらの関数はある程度高次の段階でパッケージングされ、言語的にラベリングされるのだが、ここから先の話は別の機会にしよう。

 先の段落で関数の交換可能性を論じたが、その交換可能性に乏しい、あるいは交換し得ないモジュールもまた存在する。それはときに感情と呼ばれ、ときに本能と呼ばれるものたちである。この話もまた、別の記事でする。