NASnosukeの雑記

雑記です。たぶん真偽が怪しい。

悪口

 悪口を言う。人間だもの。

 縁あって中学生の音楽のトレンドに触れる機会を得た。自分は流行に疎いから、イマドキな彼らの好む曲はほとんど聴いたことがない。逆張り、あるいは老害くさいのも嫌なので、流行りの曲を目の敵にしようとは思わない。しかしどうしても、目にするだけで眉をひそめてしまうタイトルがあった。「うっせぇわ」。実に不愉快な題名だった。まあ、聴かず嫌いもいかがなものかと思ったので、一度聴いてみた。実に不愉快な歌詞だった。しかし、何が不愉快なのか。自分が嫌うものの傾向は漠然と知っている。しかし、それらに共通するエレメントは何かということを詳細に思索したことが無かった気がした。あったとしても、忘れている。だからこうして備忘録を記すことにした。

 もっとも、結論はこの記事の題名に簡潔に示している。自分が嫌うエレメントは、他罰と自己憐憫だった。友人らの顰蹙を買いそうだが、「ロストワンの号哭」なども怖気がするほど大嫌いだ。不愉快極まりない。自分の嫌いな手合いは、自らの辛苦と、その辛苦を課す他者(それは往々にして「大人」や「社会」として描写される。)への恨みつらみ、ルサンチマンに満ちている。その原因は、思春期にありがちな、幼いながら半端な知恵をつけたことによる視野狭窄。ああいった曲はそれを心中に飼っているアーティストが描く世界観。それだけの何も珍しくはない話だ。しかし、それがどうにもカンに触る。

 人間は誰しも、何かしらの外的圧力の中で生きている。そう、誰しも。「彼ら」が盛んに指さして攻め立てる人々もまた、のっぴきならない事情の中で、辛苦を背負って生きている。しかし、それはもはやどうしようもないことなのだ。もはや人間は自然状態に戻れはしないと、飽きるほどに論じられてきた。普遍的な痛み。「大人」は、誰もが痛みを抱えていると知ればこそ、沈黙する。悪く言えば諦めだ。しかし、不満の表明は無限無辺の闘争の端だと知っている。つまり好意的に表現するならばその沈黙は、互いがこれ以上に不要な痛みを負うことを避けるための「不可侵協定」なのだ。

 しかし「彼ら」はそんなことは気にもかけない。己の無謬を信じて疑わず、平気で他者に唾を吐く。尻の青い糞餓鬼共。幼いが故、仕方ない。仕方のないのだが、しかし気に入らないものは気に入らない。だが自分もまた、未だ幼い。些細なことに青筋を立てて、唾を吐く。しかしこれも、仕方ないと言い訳したい。

「弱者迎合」が嫌いだ

 普段の自分の妄動ぶりを見ている方は何となく分かっているだろうが、自分はポリコレやそれに類する「弱者迎合」の思想が大嫌いである。この記事は、自分がそうしたものを何故嫌うのか、思考の過程を表すものである。

 まず、この記事における「弱者」とは何を表すのかを明確にしておく。「弱者」が居ることは、「強者」もまた居ることと不可分であり、二者間の関係性において彼らはラベリングされる。そしてその関係性は、しばしば社会構造に起因するものである。代表的なのは資本家と労働者の関係性が資本主義と呼ばれる構造に起因する例であろうか。「弱者」とは、構造から発生する概念であると主張しておく。

 そして、自分はそうした構造の変革を望まない。保守的なのである。では何故保守的なのか。しばしば語られることとして、搾取する側である「強者」は甘い汁をすすり続けたいがために構造を擁護するのだ、という論があるが、自分は (少なくとも自覚的には) 自らを強者と捉えてはいない。「『弱者』もまた構造を変えずとも幸福になれると思っているし、変革に伴う痛みなどまっぴら御免で、そもそも変革の根拠となる『大義』に対して懐疑的である」というのが本音である。

 自分の幸福論についても話しておかねばなるまい。悪意ある表現をするならば、幸福は幻覚に過ぎないと思っている。幸福はどこまで行っても主観の域を出ない。分かりやすく例えれば、質素なパンで大いに満足できる貧者と、高級なパンでも満足できない富裕者があったとする。客観的な指標、富の多寡を参照し得るならば後者がより幸福なのだろうが、そうではないことは想像できるだろう。(もっとも、現実には富裕者の方が幸福であることは多いが、幸福と条件との関連については後述する。) 幸福は主観的なものだからこそ、環境的要因 (条件) は関係せず、自己暗示でしかないと主張するのである。(そして、不幸は忘却してしまえるとも主張しておく。)

 しかしながら、現実世界はそう単純ではなく、様々な条件が関数として現れる。それはヒトが有限の存在である限りどうしようもない事実であり、だからこそ、自分は「弱者迎合」を嫌悪するのである。多分な悪意を以て、フェミニズム槍玉に挙げるとしよう。フェミニズムは女性を「弱者」、男性を「強者」に位置付けた構造を想定し、その不平等を解消することを目指す思想であると自分は了解している。字面だけならば非常に良心に満ちた思想である。しかしながら、(「ツイフェミ」勢力の狼藉を無視したとしても) 自分は閉口する。何故か。健全な自己暗示を妨害するからである。

 「弱者迎合」に共通するのは、例えば「あなたが当たり前だと思っていたことは、実は不条理なのだ。」と主張する「啓蒙」を以て伝播する点である。構造への不満を喚起し、構造の中で無難な幸福を手にできたかもしれない人々を、闘争の場に引きずり出すのである。人は常に漠然とした不満を抱えるものだが、「啓蒙」された甘言はそれに根拠を与える。実際、根拠は何でもいいのだ。待機中の水蒸気が微細な粒子を核として水滴を成すように、不満は輪郭を得る。不可視で、忘却できる存在だった不満が、一転して無視し得ない存在になる。そして、幸福に至るための自己暗示を阻害する。(幸福もまた、漠然としたものであり、家族などの社会的構造は、それに輪郭を与える標、「核」のひとつである。先述した幸福/不幸の条件とは、幸福/不幸の「核」になり得る存在全般である。) これが、自分が「弱者迎合」を嫌悪する理由である。

 ここまでの主張は、客観的な根拠に基づく批判ではなく、自分の主観による。そのため、一貫して嫌悪とする表現を用いた。そもそも自分は、客観性なるものに不信を抱いていると捨て台詞も残しておく。

 しかし自省してみれば、健全な自己暗示とは程遠い人間である。自分は自分の考えに多分な自信を持っているから、それを実践すれば幸福になれると確信はしているのだが、それでもなお実践できない己の惰弱さと、それの根源、ヒトであることを無念に思うほかない。自分が人類が何だと日頃言っているのは、自分の愚かしさはヒトであることに起因しており、自分以外のヒトもまた愚か。自分はその原因に気付いているのになお愚かなのだから、他人はなおさらであると傲慢にも考えているからなのだ。どうしようもない最悪人間である。しかし、自らが最悪であることさえ人類の限界の表出と捉えてさえいるから、本当にどうしようもない。

虚無への憧憬

 急な書き出しだが、自分は虚無というものを思慕している。主観的には、それは破滅願望や希死観念とは異なるものである。破滅も死も、すべて不純なものであり、憧憬に値しない。それらは空虚ではないからである。何故、そうであることを求めるのか。それは、(おそらく)極めて個人的な思想に由来する。

 概念とは灯である。その灯が我々の脳裏に映す影をこそ、我々は見ているのである。そして、その影はごく個人のものである。私の見ている「赤色」と、貴方の見ている「赤色」が全く同じものであるとは、この世界に生きる誰であっても示すことは能わないのである。自分の見ている「赤色」が、他の誰かの視界においては、自分にとっての「青色」である可能性は否めない…。平時は、そんなことは考えない。そんなことを知る必要は一切無いし、考えたところで何の益にもならない。しかし、それはふとしたときに脳の表層に浮かび上がり、囁きかけてくる。そんな時、自分はどうしようもない不安に襲われるのである。「この世のすべては自分の見ている夢である。」そんなことを考えることもある。しかし、そうであってくれれば自分はこれほどまでに憂いを抱くことはない。とどのつまり、決して確かめようのない他者との断絶、それが恐ろしいのである。幼く、情けないことに。故に、自分も他者も、その一切が掻き消えた、果てなき虚無を切望するのである。あらゆる概念はその観測者を喪い霧散した、安楽に満ちた世界を。

 思うに、虚無とは人間が観測し得る「絶対なる存在」の一つである。通常、概念というものは我々に観測されなければ存在し得ない。(影があって初めて、それを映す灯が現れる。非常に奇妙で、因果が逆転しているようにも思えるが、それはそういうものである。)しかしながら、真の虚無は、我々すべてが消え去った後に現出する。人間に定義されずとも、それは確かに存在する。(数学的、物理的な何某にも似た気配を感じるが、周知の通り、自分は数学には明るくないため深くは言及できない。)人の身では、その真偽を確かめることは能わないと承知している。しかし、確信めいた何か、信仰とでも言うべきその情動を、自分は抱いて止まないのである。

精神は、モジュールの集合体である

 精神とは何か。人類の永遠の問いとも言える議題であり、その結論は一に定まることはこれまでに無かったし、これからも無いだろう。しかしながら、人工知能 (AI) 技術の発展目覚ましき今日、それに圧迫されるような形で、「殊、ヒトの精神とは何か。AIと何が異なるのか。」という問いが浮かび上がった。他に、「21世紀は自由の世紀である。」と声高に叫ばれるようにもなった。自由とはすなわち忌むべき旧習の打破であり、市民それぞれが、主体的に自己を定義することである。その最たる例がジェンダーフリー思想であろう。肉体的に性を定義される現状を変革し、精神的にヒトの性を定義せんとするものである。ここにおいて、今日の支配的思想は、「ヒトの精神は定義しづらいが確かに在り、それは尊ばれるべきものである。」といったようである。自分はそれに一言二言口を挟んでやりたいが、今はその時ではない。今主張すべきは、自分は「精神とは何か。」の問いに対して、記事の題に記したように「精神とはモジュールの集合である。」としていることである。

 まず、「精神とは、脳内で (ニューロンによって) 実行される計算の総体であり、真に議題となるのはそれらの計算の素性である。」との前提を共有したい。神経科学の知見を借用したものである。正直、この前提を提示した時点で結論を述べたようなものではあるが、一応説明してゆこう。精神の構造は視覚的に、容易に想像し得る。

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初めに、ある入力に対して必ず一定の範囲の出力を返す関数aを想定してほしい。これそのものは非常に単純なものである。それこそ、原始的な魚類でさえ計算可能であろう。次に、それらの簡単な関数が連なり、”sheet” とでも呼ぶべき関数の集合体を形成する。そして、”sheet” が重なり、”block” を成す。そしてさらに…、といった風に、より高次の関数の集合体に統合されてゆく。その最高単位が「精神」である。すなわちここにおいて主張するのは、「精神は分解して検討し得る物象である」ということである。

 もしも自分が数学に明るければ上の図により詳細かつ正確な解説を付すことができるだろうが、生憎全くそうでない。しかしながら、精神は関数の集合体であると伝えたがっていることは読み取ってもらえたと思う。そして、それらの関数、あるいはその集合体をモジュールと呼んだのには、もちろん理由がある。次に主張するのは、「それらのモジュールは交換可能性、拡張可能性を保っている」ということである。交換可能性とはすなわち、ある計算を実行する際、各次モジュール段階において、あるものはアクティブで、またあるものはインアクティブであるということである。例えば、日常を過ごしているとき、ややこしい哲学的な思考はおそらくしないだろう。そうした計算を実行するモジュールがインアクティブな状態なのである。しかしながら、然るべき場、然るべき時においては、そうしたモジュールがアクティブな状態に切り替わり、日常を穏やかに過ごすためのモジュールはインアクティブな状態になる。このように同時にアクティブになることができないモジュールは、状態を交換するしかない。これが交換可能性の意味である。では拡張可能性とは何かと言えば単純な話で、新たな関数を実装するキャパシティが存在するということである。例えば、これまでキリスト教を知らなかった者が、それを知ったとしよう。その者の「精神」には必ず何らかの変化が生じるだろう。それはすなわち、計算結果の変化であり、計算結果が変化することは関数が変化することである。「知る」という行為は、新たな関数をインストールし、モジュールとして実装することなのである。そして多くの場合、それらの関数はある程度高次の段階でパッケージングされ、言語的にラベリングされるのだが、ここから先の話は別の機会にしよう。

 先の段落で関数の交換可能性を論じたが、その交換可能性に乏しい、あるいは交換し得ないモジュールもまた存在する。それはときに感情と呼ばれ、ときに本能と呼ばれるものたちである。この話もまた、別の記事でする。